波(2020年)

こんばんは。2020年に授業で書いた文章を載せる気になったので供養。





 
  あなたとなら私、あの火星でも何もない太平洋でも閑静な住宅街でも楽しいと思ったの。
 
 かつて彼女はみんなの恋人であった。等しく友人を愛し友人に傷ついていた、不器用で愛おしい子。高校一年生の時にクラスは一緒だったけれど、私の知らないうちに彼女は激しい風の吹く花畑のような人になっていた。当時の彼女はその美しさと激しさ、ドライフラワーの花弁のように触れるとすぐに崩れてしまいそうな危うさを孕んでいた。故に誰かは彼女の恋人のように振る舞うが彼女は誰の恋人でもなかった。彼女の黒くて柔らかそうな髪と細い手首を思い出す。
 海に行こう、と言ったのは私からであったか彼女からであったか。私は海に行くなら彼女がいいと思っていたし、彼女も私と行くことを望んでいた。山などの自然にも、かといって都会にも縁のない私は海に対して憧れというよりも、母の胎内に帰りたいとふと思うような感覚を抱いていた。
 私たちは友人の中でもこういう関係で、泳ぎもしないし釣りもしないが片道千円で和歌山の海に行く。彼女と待ち合わせをしている駅まであと十五分程、私は他の友人と遊ぶ時とは大いに違う高揚感を感じていた。テーマパークに今から向かうような、またはハネムーンに向かう新婚夫婦のような。窓の外から光が刺す。いつもと違う景色が左から右へ流れていく。まだ肌寒い季節だが快晴なようで本当に良かった。彼女からのメールがとどく。
 
 目的地としていた浜辺より少し手前の海水浴場で降りた。私たちの慰安旅行に計画性など全く必要がなく、この駅で降りる前には予定に入れてもなかった小さい遊園地のある駅で降りてみたが、入園料の絶妙さで軌道修正し今に至る。携帯の画面を確認しながらとりあえず進む。潮の気配がして鼓動が早くなる感覚を覚える。大阪湾の死のにおいとは違った新鮮な潮のにおい。彼女と繋いでいた手の力が強くなる。
 

遠くに小さく私たちの荷物が見えている。足には太平洋のさざなみが緩く打ち付ける。浅い所の砂は夢の中かと思うほど柔らかく、温く少しひんやりした海水は私の皮膚を不気味なほど優しく撫でた。足をあげるのが大変で、足が掬われるとはこのことだなあと思った。
「うれしい?」
私の左腕に腕を組んで歩いている彼女に聞く。金色に抜けた髪の毛が揺れている。
「すっごくうれしい」
じっくりと大切に、幸福そうに言うもんだから私は少しびっくりした。いつもみたいな大袈裟なリアクションでは決してない。彼女は、嬉しいというひとつの感情であってもその中に潜む繊細な表情を見せてくれる。私にとって彼女は様々な人間の側面や感情の手触りを教えてくれた人であった。
 

(ほんの少し 触れてみたかったの
ねえ 星と踊りましょう
桃はもう とっくに熟してしまったけれど
あの毛布の中を思い出しましょう
あの毛布の中を思い出しましょう)
 
 
「さっき食べたサンドイッチ美味しかったね。また来ようね」
 昼食を海の家で食べてから、缶コーヒーを購入して海水浴場の周りを探索する。日が傾いてきている。遠くに見える海に目を細める。気温が下がってきた空気の中、肩を寄せ合い丁寧に縫うように歩く。色んな話をした。昨日書いた日記や卒業式のこと、将来のこと、先日遊んだ内容、彼女にできた恋人のこと。
「君といっしょに来れてよかった」
つい最近、彼女には恋人ができた。私が大学受験で忙しない時期、彼女も辛く残酷な日々を過ごしていた。そんな彼女に寄り添うような、支え合うような彼女の片割れ。双子だったような人である。私は彼女を大切にしてくれる人、彼女が大切にしたいと思えるような人が出来たことが私は嬉しくて心の底から祝福した。波の音が聞こえる。昼間は荒々しい印象は薄くなっていたが、だんだん波のひとつひとつが大きくなっていることがわかる。
 
 煙草の火が薄暗くなってきた浜辺に浮かぶ。目に留まる熱は、埋まることのない彼女の気高い孤独のようで、甘ったるい煙は彼女の諦観した優しさのようで寂しさのようで私は少し動揺した。ビニール袋を敷いて狭々と座る。彼女の香りが私を包む。慣れていないからかもしれないが慣れてはいけない気もした。
 

(火星がみている 明日の夕方の色かしら
六枚切りの食パン買ってジャム塗って
あの子にあげようかしら あげようかしら 
月の裏側のニキビを潰し回る
何をすればあの子は喜ぶの
何をすればあの子は私を知ってくれるの
見つめている
土曜日のブランケットのなか 机の下の暗い影)
 
 
もう触れることのできない今日である。ほどける手のひらの熱。夜になるにつれて、海も砂浜も私たちの輪郭もぼやけていくようで、永遠にこのままだといいのにと思ったりして少し涙が出た。落ちていく日を見つめる。夜に攫われないように、攫われないように手を繋いで、慎重に私たちは電車に乗った。

コメント

このブログの人気の投稿

2022年のこと

2022/3/2

2021/9/21~2021/9/24