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大したことではない

たいしたことではない 泣くほどのことではない そうしてやり過ごせていたら どれほど楽だったのだろうとか 昔の自分の文章などを見て思う 幼いけどしっかり向き合って生きていてかっこいい 少し遠くにいる 私が遠ざかってしまったのか あの私たちがどんどん遠くへ行ってしまうのか うらやましいけど、戻りたくはない 働くとか大変だし友達もすぐ会えないけど 今が好きだよ 絵も描けないけど どんどんよくなっていくよ なにが正解なのだろう 遠ざかっていくものが私の憧れだったのか それは、私が泣いていても寄り添ってくれるのだろうか 生きていても許してくれるのだろうか 望んだものは、私がちゃんと握っているべきだ いつか死ぬべきだ 2023.9.13

2022年のこと

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 年が明けた。今年は大晦日の20:00から、高松の憐庫で安土早紀子さんと工藤冬里さんのライブ『新しい挨拶』があり、なんやかんやで香川で年越しをした。 今年も宜しくお願い致します。 2022年についてざっくりまとめたものをTwitterでも投稿していて、 やっぱり詳しく書いたものも自分の記録用として欲しかった。 書いてみたら各月の日記っぽくなった。 とりあえず↓はTwitterでまとめていたもの 1月 人間 2月 なんで生きてるんですか? 3月 展示とうれしさ 4月 孤独 5月 東京とフリペ 6月 就活と島 7月 課題と卑屈とsideM 8月 健康志向とあらゆる締め切り 9月 コミティアと論文 10月 大人になるとは 11月 就活と表現活動について 12月 お疲れ様!まだ走れ どんな年なんだよ~~ 正直覚えているのが3月ぐらいからで、あとは9月からの印象が強い1年であったと思う。 1月 人間 2月 なんで生きているんですか? おそらく展示準備であたふたしていた時期。でもその時期に仲良くなった後輩がいたりもして、その後輩の子の家で学校帰りに一緒にほっかほっか亭とか食べていた記憶がある。1月頭には友達が働いている岸和田カンカンベイサイドモールに遊びに行った。1月末にはサークルで凧揚げもした。2月は高松市立美術館でのパフォーマンスを観に行って、すごくよかった記憶がある。 3月 展示とうれしさ ゼミの発表の一環で、学外で展示することが作品発表だった。岡山県内じゃなくてもよかったけど、なるべく岡山でやりたいなとは思ってて、結局津山にある喫茶曲がりというスペースで展示させてもらうことになる。 2021年から展示のことを考えていたけど、制作しているものはドローイングが多く、これでなにか成立するのかと不安になっていた。そのときのテーマとして、自分の身体について考えていたことがあって「not in」というドローイングや「デアマイ」というタイトルのキャンバスボードに描いていた作品を主軸に考えて、『not in ( ボーン )』という展示タイトルにすることを決めた。⇒  not in (ボーン)について not in 「not in (ボーン)」は、「日常生活の中で感じる不在感と、それでも存在しているということ」をテーマにしたものだ。不在感はアカデミックな制作活動やそうした環境に接する中で

2022/3/2

2022/3/2 なんでつくるの、なんで生きるのかと問われているように思う 意味は、意味は、意味は・・・ とことん考えていくといつか馬鹿馬鹿しくなっていくかとやってきたが、なんでがどんどん太字になっていくばかりだ。けれど昔よりかは、その250ptのクソデカ「なんで」に押しつぶされることがない。 結果でしかないから、とも言えてしまうが、発生に対しての価値観が変わってきたからなのかもしれない。 うまれることって怖い。例えば自分は女で、小学生の時には生理というマジ意味わかんない超常現象を、出来るかも未確定な将来の子供のためにと納得させられて毎月「自分は生殖に関わる生き物なのだ」と考えざるを得ない爆弾を見つめる日々で、もし子供が産まれたら…だとか言って自分のDNAが引き継がれた生命体に未だない責任感を抱いている。 そういう人は多いんじゃないか。作品をつくることと子供をつくることは全然違うものではあるが、この世に何かを残す点では一緒である。私たちも「残された」側だ。残された側としても、残す側としても、ここの世界はすごく怖い。恐怖と同時に、罪悪感も感じる。生まれてきてよかったのだろうか。 自分の作ったものを作品と呼ぶようになったのはいつからだろうか。高校生ぐらいからのような気もするが、中学校や、小学校の工作の時間に描いた絵や立体物だって今手元になくてもそれは作品と呼べる。それらは、その時々に課題であったり趣味であったり暇つぶしであったり、祈り、呪い、鏡、結果、目的、装置であったりする。それらひとつひとつに大義があたったという人、ゴミであったという人、救いであったという人。 生み出されたものはどこから発生し、どこに還っていくのだろうか。かれらは生まれてきてよかったのだろうか。

2022/2/7

  2022年2月7日(月) 早起きして岡山駅に行こうと思っていたが二度ぐらい目を覚ましたらもう9時になっていた。今から行って13時に学校に着くことができるかとずっと考えているうちに30分程気を失う。急いで用意する。朝ごはんに(急いでるのに飯を食いだすからな~~~~)ご飯に鯖味噌の余り、卵をかけて食べる。準備はできたけどもう授業が終わってからにしようと思い、漫画を読んでたらいつの間にか12時になっていた。学校に行く。マフラーを巻いて自転車を漕ぐとめちゃくちゃ汗が出る。 今日は3限目にドローイングの授業があるだけだった。今回先生はリモートなので各自作業をする。終わってから自転車爆漕ぎで駅に向かう。18時から歯医者だから、15:30~17:10の間で東急ハンズとながいひるに行く予定を立てている。ハンズで紙やら買ってながいひるへ向かう。本を売りたいなと思って少しだけだが持っていく。ヌさんの日記と遊星のZINEを買って帰る。久しぶりにながいひるにいけてよかった。小走りで駅まで向かう。電車に乗れる。歯医者に早めに到着する。親子3人交代で受診をしているようだった。ひとつの歯の治療がやっと終わる。21時ごろ辛いラーメンを食べる。ごま油をかけるとおいしい。作業戻ろうかなと思ってたけど粘土捏ねたりする。犬と人間をつくる。ラドール気持ちええ~手癖で描くような人間を立体におこしてみたかったのでそれが出来てよかった。 最近漠然とインプットばかりしていたので、アウトプット全力期間に入ろうかなと思ってアカウントのログアウトとかする。粘土終わってやっと課題の続きに着手して、なんやかんや言うて3時とかになる。起きれるんか?

2022/5/8

 2022/5/8 起きたら家を出る10分前だった。ムーンライトディスコを流して時間を測りながら準備。上手くいくもんで昨日買ったドーナツと野菜ジュース鞄に詰めて化粧して家を出た。間に合う。 やることはあるけど金稼がなあかんくて、ほんでも時給863円で一日4時間しか入られへんバイト、なんでやってんのかわからんけど観光地でのバイトは結構楽しい。掛け持ちしててよかったと思う。今日は母の日だったからかプレゼントを買っていく人が多かった。 何があっても彼らの生まれてきたことを否定しない、と言えてしまえばいいのだろうが、それはそれで責任を放棄しているようにも思う。なんで生まれてくるんだろうね、なんでそうせざるを得なかったんだろうね、わたしたち、なんでこんな文章書いたりTwitterを長時間眺めてまでも作ろうとするんだろうね。 なんでもかんでも天職なんてものが見つかればそらいいんだろうけど、そこまで計画的に生きてはいなかった、何かの中心のひとも、その外側で彼らをサポートしている人も、ちゃんと頑張りや見極めがあってそこに立てているのだ。「何かに劣っているから」そこにいるわけではない。
2022/5/7 土曜日 バイトが終わってから3時ごろまで友達と電話をして、多分4時に眠った。 身体を縦にしたのは13時を過ぎ。 何してたんだっけ 今までの人生 気温がちょうどいい 身体は特に怠くもなく状態で言えば0に近い 昨日まかないでもらったおにぎりを食べて、足りないと思ってもう一杯ご飯を食べながらなんとなくスタミュの1話を観る。そういえばレビュースタァライトを途中まで観ていたことを思い出して3話から視聴する。 14:30 風呂に入る 今日はずっとぼーっとしていた気がする。風呂から出て動画を見てたらいつのまにか眠ってるし、夜からバイトに行ったけど小さなミスが多かった。何考えてたんだっけ。昨日ゼミで、全然出来なくて悔しくてめちゃくちゃになってちゃんと頑張ろうって思っていたはずだったけど。その気持ちはずっとあるけど…  夕方ちょっと寝る。変な夢を細々と見た。 バイト中は止まってる時間や皿を洗ったりする時間が多いし話好きの店長にも話しかけられることが殆ど無いので、そうした関係に至ってしまった後悔、自分の死、何かで一番になること、今やってるバイト以外のバイトしているビジョンがあんまりないこと、来週の会社説明会、大場なな、お金を多く稼いだ方がいいんだろうけど今で精一杯楽しいということ、体力、のことを考えていた。最近出費が多くて、短期バイトでもいいから稼ぎを増やさないといけないかもなと考える時間が一日に30分くらいある。せんくても生きていけそうなのでしない。 0時、 帰ってきた。今日のまかないはキムチチャーハンだった。コンビニで野菜ジュースとドーナツと炒飯の素を買う。レビュースタァライトの続きを観る。神楽ひかりちゃんのこと好きだ。 1時、pixivで横谷さんの葬式帰りを読む。以前から紙書籍版が気になっていて、一度漫画も読みたいと思っていた。喪失感。読んでしまったばっかりに知ってしまった人、その人の喪失に立ち会う度に作品 の強さを感じる。章雄。意識をしていなかったけど、自分がかつて失なったもの、大切だったものがあって、その空白になったところに触れられた気がした。紙版を手元に置きたい。 クレジットの来月の支払いはカツカツなのでもうちょっと後で買おう。 寝る準備をしたりして、今日一日何もしていないから日記を書いておく。頭がなんか痛い。辛いという気持ちも諦めも無い、丁度透明な感じの
2020年11月28日 自分になろうとしていたはずがいつの間にか「だれか」を追いかけている。卒業研究では環境、自分ではない他者、ものと向き合うことで自らの輪郭を得ること、誰かと対話をすることで自分を見つめることをテーマに作品制作を行ってきた。私はいまだに自分を掴むことができずにいる。というか自分を認識しようというところでぼんやりしてくる。見ないでというように霧が濃くなっていく感覚。私は本当に自らと対話がしたいのだろうか?   興味のあることがたくさんあった。同時にひとつのことが続かない側面もあった。人間関係も同様で、仲のいい友人は多いが一瞬で孤独感を感じることも多かった。長い時間付き合っていればそれなりに多くのことを話すし、お互いの情報も得るようになって信頼感も生まれてくる。その時間はとても豊かで楽しいものだが突然、行き止まりのような気分になる。そんな時期に大概卒業とか生活環境が変わるだとか忙しいことがあって新しい関係をまた別のところで形成していく。私が私らしくそこにあった記憶があったのだろうか。そうである必要性がないのかもしれないが、生きている限りできれば本質に近い自分でありたい。それを知るためにも、今は自分が好きなものをまっすぐ信じたいと思っている。 しかし、本質の自分を記述することが恐ろしい。きっと、破壊されることが怖くて否定された後何を支えにすればいいのかわからないから。自分は自分でしかない。身体が一つ、それは本当に一つだけ。こうした思春期を無限に抱えている。自分を自分だと許すために生きていこうとこの間思っていた。   他人を傷つけた記憶がずっと残っている。罪悪感は私自身を優先させて生きることを制限させる。では他人に感謝された記憶は私にどう作用する?生きてから死ぬまで、なるべく喜んでいてほしい。私もうれしい。   誰かになりたいのだろうか。美人とか中原浩大とか壁サークルとか…。なってどうするのだろうか。その人の人格で世界平和を願いたいのだろうか。そういう姿であったら自分を許せると思っている。早く向こう岸に行きたくて、泳いでいる。私の希死念慮はなにもかも早く終わらせたいと思う意思からだろう。疲れているんだと思う。 3 日後の約束のために生きる、ようなことを 20 年も繰り返している。私が生きていてもいいことをとりあえず自分が言わなけ

2021/11/17

2021/11/17 木曜日 9月のはじめのころに比べるとアトピーで荒れていた手もマシになってきた。掻いてしまったところの傷が治る前に掻いてぶり返す、ようなことは無い。治癒能力が元に戻ってきているのかもしれない。 それにしても憂鬱だった。晴れていて、講義も少なくて、美味しいものを食べたけれど、友達の話に出てきた会ったこともない知らない占い師が、私という人間の愚かしいところを突いてきている感じがする。それってあなたの仮想敵ですよね…。 昼ごはんにハムカツサンドといちごの乗った甘いやつを買う。今日はなんだか暖かそうだなと思って屋上に行く。山を見る。紅葉の気配を想う。 香山哲さんの『ベルリンうわの空 ランデシュランゲ』を読む。 ベルリンうわの空も3巻目で、これが最終巻である。ながいひるで買ったときに、1100円を出して思わず「安!」と言ってしまった。それぐらい身に余る贈与感が香山哲さんの仕事やベルリンうわの空にはあると思っている。二色刷りで、漫画としての画の面白さが常にある。ただ眺めるだけでも楽しいが、語りがすごくいい。彼のように…と思ったりもするが、それぞれの人生のスタート地点は運で決まるわけだし、とりあえずいい感じのところへ向かっていく感性を忘れないようにしたい。彼の漫画を読んで、自分も作ったり話してみたくなる。作り手の身体性、祝祭、影響について思う。 屋上を後にし、作業してから家に帰る。今日はアウターを買いに古着屋に行こうと思っていた。家に帰ってすぐに出るつもりが、鮭ふりかけ飯を食べる。一服して頭のなかがシーンとなると最悪がどんどん出てくるから家を出た。 結局犬の刺繍のついたセーターと、黒と藍色の花柄っぽいカーディガンを買う。触り心地がよくてうれしい。バーガーを買って帰る。 霜降り明星のせいやのモノマネ動画でひとしきり笑った後風呂に入った。怖くて面白いやつが大好きだと思う。久しぶりに日記を書く。なるべく書いておきたいと10月全く書かなかったので思う。友達と電話。今日会ったことをちゃんと思い出すと、嬉しかったんだなと思う。制作~~~~

2021年の9月

 2021/9/25 土曜日 昼からバイト。帰りによく行く煙草屋さんでソフトクリームとみかんを買う。そのままギャラリーに行く。  2021/9/26 日曜日 昼バイト。終わってからFさんとお茶する。将来どうしようか~という話をする。気になる所とか好きだと思う場所にメールを打ってみてはどうだろうか?という話になった。確かにそれなら頑張れる気がする。ポートフォリオも組みやすい。  2021/9/27 月曜日 👏💫💫 2021/9/28 火曜日 🙋💚 2021/9/29 水曜日 👍💚 2021/9/30 木曜日 👐😺 書けていなかった。なんかバタバタしたりして。山に行ったり川に行ったりもした。楽しかったよ。また後々写真とか追加するかも。 9月はほんとなんもなかったけど何かしらあったんだろうな。日記も続いていたし 「何にも出会いたくないと思うことは死んでいることと一緒なのではないか」 「いや、ただそこにいること そこでなにかを見つめていることは触れていることとも言えるのでは」 一人で考えていて陥ってしまった考えとはいえ、拒絶を死だと捉えてしまったのは資本主義的だとも思った。つまりは生産的でなければ生きている価値さえないと言ってるも同じじゃないか。そもそも大前提として今目の前にいる人間は生きているのに、何故死んでいると思ってしまったのか。「生きる」ということの定義が狭まってやしないか。生きる=生産であるという話は理解できるが、社会的な規範のなかでの生産でなければ生きていないとでもいうのか。枠組みの外でしか生きられないことを死んだというべきではない。私の「死にたい」は対話の拒絶なのかもしれないと最近思った。そこに肉体が現れることがひどく恐ろしいのだ。(社会的にみて)死んでいるのと一緒だ、と思われるのではないか。しかしそうした一般的な社会ではなく例えば何もない空き地だとか、そういうところで発現する輪郭があるだろう。そこで現れる輪郭がちょうどいいと思えるのなら、そうした心地のいい秋風が吹く場所へ行ける可能性がまだこの世界にあるのなら、出会うことを恐れずに済むのかもしれない。

2021/9/21~2021/9/24

 2021/9/21 火曜日 崩壊したのかもしれない。起床してご飯を食べて、昼頃から家を出ようかなと服を着替えようとして身体が動かなくなった。ベッドに突っ伏してすべての感覚が泥のようになっていくのを感じる。スマホで動画を見ようとしても楽しく思えない。やばいと思って、少しでも家を出るための手段と思って姉に電話をした。いつも予定を組んで電話をするので、緊張した。言葉が出てこない、何かを話すたびに涙が出る。自分でも自分じゃないような声のトーンで驚いてしまう。色々話した、適応しようとしたものと自分のギャップ、誰も自分の話を聞いていないんじゃないかとか無価値であることを感じてしまうこと、オタクというかアニメを見る自分がしんどいこと、友人にとっての愚かしい存在に自分がなってしまうんじゃないか、自分自身のことを「痛い」と思うことがつらい等、人に言えていなかったが常日頃からの自分の不安が露呈した。姉は話を聞いて姉の思うことを私に伝えてくれたりする。全部が嫌で生きていることが辛かったが話すことで何が嫌なのか少しわかった。Netflixのクィア・アイを紹介してもらって第一シーズンの1話と2話を見た。コンビニでカレーパンと酒を買う。酔うと口をめちゃくちゃ開いてしまう癖があるのだが、その状態になったことがなんだか面白くて大丈夫かもと思った。だけど0時に寝て3時ごろ起きてしまう。なぜ。その日は朝まで眠れなかった。 2021/9/22 水曜日 結局夜中からずっと起きていて、7時ごろおもむろに散歩に出かけた。10時ぐらいに耐え切れず1時間ほど眠る。今日は夕方に用事があるから、それまではコメダで作業しようということで用意して昼過ぎに出発。久しぶりのコメダ珈琲だった。自転車を漕ぎながらずっと考えていたモンブランとアイスコーヒーを注文する。モンブランは栗の味が濃厚で、ラム酒が効いていてすごく美味しい…。制作が何も進んでいないというか自分が何をしたいのかがわからない。先日作成したプレイリストを聴きながらメモをしていく。傍らにあったおしぼりの形がなんだか変で、布って良いなあとか思う。布と石。なんだかいけそう!わからないけどね。電車に乗って目的地に向かった。心配事は案外大丈夫だったりするが、行く前に胃がキリキリして鮭おにぎりを食べる。今日はずっとなんか食べてるかも…。用事終わる。 2021/9/23 木曜日