2022/3/2
2022/3/2 なんでつくるの、なんで生きるのかと問われているように思う 意味は、意味は、意味は・・・ とことん考えていくといつか馬鹿馬鹿しくなっていくかとやってきたが、なんでがどんどん太字になっていくばかりだ。けれど昔よりかは、その250ptのクソデカ「なんで」に押しつぶされることがない。 結果でしかないから、とも言えてしまうが、発生に対しての価値観が変わってきたからなのかもしれない。 うまれることって怖い。例えば自分は女で、小学生の時には生理というマジ意味わかんない超常現象を、出来るかも未確定な将来の子供のためにと納得させられて毎月「自分は生殖に関わる生き物なのだ」と考えざるを得ない爆弾を見つめる日々で、もし子供が産まれたら…だとか言って自分のDNAが引き継がれた生命体に未だない責任感を抱いている。 そういう人は多いんじゃないか。作品をつくることと子供をつくることは全然違うものではあるが、この世に何かを残す点では一緒である。私たちも「残された」側だ。残された側としても、残す側としても、ここの世界はすごく怖い。恐怖と同時に、罪悪感も感じる。生まれてきてよかったのだろうか。 自分の作ったものを作品と呼ぶようになったのはいつからだろうか。高校生ぐらいからのような気もするが、中学校や、小学校の工作の時間に描いた絵や立体物だって今手元になくてもそれは作品と呼べる。それらは、その時々に課題であったり趣味であったり暇つぶしであったり、祈り、呪い、鏡、結果、目的、装置であったりする。それらひとつひとつに大義があたったという人、ゴミであったという人、救いであったという人。 生み出されたものはどこから発生し、どこに還っていくのだろうか。かれらは生まれてきてよかったのだろうか。