2020年11月28日 自分になろうとしていたはずがいつの間にか「だれか」を追いかけている。卒業研究では環境、自分ではない他者、ものと向き合うことで自らの輪郭を得ること、誰かと対話をすることで自分を見つめることをテーマに作品制作を行ってきた。私はいまだに自分を掴むことができずにいる。というか自分を認識しようというところでぼんやりしてくる。見ないでというように霧が濃くなっていく感覚。私は本当に自らと対話がしたいのだろうか? 興味のあることがたくさんあった。同時にひとつのことが続かない側面もあった。人間関係も同様で、仲のいい友人は多いが一瞬で孤独感を感じることも多かった。長い時間付き合っていればそれなりに多くのことを話すし、お互いの情報も得るようになって信頼感も生まれてくる。その時間はとても豊かで楽しいものだが突然、行き止まりのような気分になる。そんな時期に大概卒業とか生活環境が変わるだとか忙しいことがあって新しい関係をまた別のところで形成していく。私が私らしくそこにあった記憶があったのだろうか。そうである必要性がないのかもしれないが、生きている限りできれば本質に近い自分でありたい。それを知るためにも、今は自分が好きなものをまっすぐ信じたいと思っている。 しかし、本質の自分を記述することが恐ろしい。きっと、破壊されることが怖くて否定された後何を支えにすればいいのかわからないから。自分は自分でしかない。身体が一つ、それは本当に一つだけ。こうした思春期を無限に抱えている。自分を自分だと許すために生きていこうとこの間思っていた。 他人を傷つけた記憶がずっと残っている。罪悪感は私自身を優先させて生きることを制限させる。では他人に感謝された記憶は私にどう作用する?生きてから死ぬまで、なるべく喜んでいてほしい。私もうれしい。 誰かになりたいのだろうか。美人とか中原浩大とか壁サークルとか…。なってどうするのだろうか。その人の人格で世界平和を願いたいのだろうか。そういう姿であったら自分を許せると思っている。早く向こう岸に行きたくて、泳いでいる。私の希死念慮はなにもかも早く終わらせたいと思う意思からだろう。疲れているんだと思う。 3 日後の約束のために生きる、ようなことを 20 年も繰り返している。私が生きていてもいいことをとりあえず自分が言わなけ
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