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2021年の9月

 2021/9/25 土曜日 昼からバイト。帰りによく行く煙草屋さんでソフトクリームとみかんを買う。そのままギャラリーに行く。  2021/9/26 日曜日 昼バイト。終わってからFさんとお茶する。将来どうしようか~という話をする。気になる所とか好きだと思う場所にメールを打ってみてはどうだろうか?という話になった。確かにそれなら頑張れる気がする。ポートフォリオも組みやすい。  2021/9/27 月曜日 👏💫💫 2021/9/28 火曜日 🙋💚 2021/9/29 水曜日 👍💚 2021/9/30 木曜日 👐😺 書けていなかった。なんかバタバタしたりして。山に行ったり川に行ったりもした。楽しかったよ。また後々写真とか追加するかも。 9月はほんとなんもなかったけど何かしらあったんだろうな。日記も続いていたし 「何にも出会いたくないと思うことは死んでいることと一緒なのではないか」 「いや、ただそこにいること そこでなにかを見つめていることは触れていることとも言えるのでは」 一人で考えていて陥ってしまった考えとはいえ、拒絶を死だと捉えてしまったのは資本主義的だとも思った。つまりは生産的でなければ生きている価値さえないと言ってるも同じじゃないか。そもそも大前提として今目の前にいる人間は生きているのに、何故死んでいると思ってしまったのか。「生きる」ということの定義が狭まってやしないか。生きる=生産であるという話は理解できるが、社会的な規範のなかでの生産でなければ生きていないとでもいうのか。枠組みの外でしか生きられないことを死んだというべきではない。私の「死にたい」は対話の拒絶なのかもしれないと最近思った。そこに肉体が現れることがひどく恐ろしいのだ。(社会的にみて)死んでいるのと一緒だ、と思われるのではないか。しかしそうした一般的な社会ではなく例えば何もない空き地だとか、そういうところで発現する輪郭があるだろう。そこで現れる輪郭がちょうどいいと思えるのなら、そうした心地のいい秋風が吹く場所へ行ける可能性がまだこの世界にあるのなら、出会うことを恐れずに済むのかもしれない。